MENU
PCサイトを表示
シェアブックス スタッフが送るたわいもない日記
  • 2022.03.31 雨

    マサへ捧ぐ

友人がコロナで死んだ。
こんなところに書くべき内容ではないかもしれないが、SNSを何もやっていない僕は彼の生きた証をどこかに残したい。
複雑な家庭環境で生まれ育ち、孤独に死んでいった彼の為に、ここに記したい。

彼は去年に癌を患っていたが、抗がん剤とレーザー治療を無事に終えて経過も良好だと聞いていた。
今年の正月に実際会った時は、以前の元気を取り戻したようにも見えて少し安心していた。
「コロナにかかったみたい」と連絡があった時も、笑いながらで、僕も冗談を言って茶化す程だった。
しかしそれから数日たった最後の電話での彼は苦しそうだった。
「肺が痛く、救急車を呼んだけど病院に連れていってもらえなかった」と彼は言っていた。
病床がひっ迫していたのか、それとも他に問題があったのかは分からない。
その電話でまさか彼が死に直面しているなんて思ってもいなかったし、東京と大阪で離れていて何もしてあげる事は出来なかった。
その後、彼と連絡が取れなくなっていて心配していたが、オミクロンは重症化しないという勝手な先入観を持っていた僕は、病院に行って入院でもしてるのかなと思っていた。
しかしその後も数日間連絡が取れなく、胸騒ぎがしていた矢先に彼が亡くなったと一報が入った。
結局病院には行けてなく部屋で絶命していたらしい。
まだ45歳の若さだったが、癌の治療明けで免疫が落ちていたのだと思う。
彼が愛していた女性が、片付けの為に部屋に入って写真を送ってくれた。
部屋の状況から最後はもがき苦しんでいたのが明白だった。
後日遺品整理の為、車で大阪へ向かい、片づけをして、粗大ごみと遺品をハイエースに詰め込んで持ち帰った。
遺品を見ると胸が痛くなり、行きも帰りも車の運転をしている間はずっと彼の事を考えていた。

高校で出会い、すぐに意気投合した僕たちはずっと一緒に遊んでいた。
若かった僕たちは一緒に悪い事をする度に仲を深めていった。
そんな彼が二十歳そこらでアジアに1人旅へ出かけた。
帰ってきて旅の話を夢中に聞いてる僕に、「すぐにでも一緒に行こう」と、それまで狭い環境でしか生きていなかった僕を広い海外の世界へと連れ出してくれた。
それが人生の転機だった。

日本でバイトをしてお金を貯めて、そのお金が無くなるまでアジアを周るという奇行を定職にも就かず二十歳から3.4年、繰り返し続けた。
タイの北部地方でお金が尽き、勝手に自分たちの持ち物を路上に並べ、原住民に売りつけて小銭を稼ぎ、二人で野宿をしながらバンコクを目指した。
到着したバンコクで、日本の友人に頼み込んで送金してもらったお金を、彼はまたすぐに使い込んでしまうような男だった。

タイの南の島ではビーチパーティーに夜な夜な出かけ、朝まで踊り続けて疲れきった僕達は砂浜で朝日を見ながら、よくこれからの人生について語り合った。
今でも鮮明に覚えているが、彼は「こんな経験を死ぬまでにあと何回出来ると思う?」と聞いてきた。
僕は「その気になれば何度でも出来るよ」と答えたが、今までの人生であれ以上の解放感と幸福感を経験した事はないし、おそらくこれからもないだろう。

ネパールのポカラで、人だかりが出来ていたので何事かと見に行くと、彼がテンプー(小型オート三輪)の運転手と大揉めしていた。
僕は急いで止めに入ると、相手の運転手の家族も止めに入り何とか収まった。その数分後には何故か彼と運転手は肩を組みあうほど仲良くなっていて、気づいたら運転手の家に行く流れになり、その日は親戚一同を集めて大宴会となった。

ヒマラヤの麓にある、もの凄く広い湖でボートを借りて、静寂の湖の真ん中で音楽をかけながらプカプカと浮き、次はどこの国にどのルートで行くかを地図を開いて何時間も話し合った。

バングラディッシュのジア国際空港(現シャージャラル国際空港)の職員が、「お前の友達を何とかしろ」と困惑の表情で僕に迫ってきたので、何だろうと思い職員に付いていくと、イミグレーションの荷物を置く台の上でいびきをかいて寝ていた。

タイの野良犬は彼とすれ違うたびに、うねり声を出し威嚇してきた。
聖なる牛と言われ普段はおとなしいインドの水牛が、彼が近づいたらびっくりするくらい興奮して暴れだし、周りにいたインド人にお前は悪魔だと罵られ、彼は逆上し一触即発の空気となった。

インドのジャイプール(ピンクシティ)から西に向かい砂漠の入り口のホテルに泊まり、最高に眺望の良いテラスで、砂丘の向こうから朝日が昇るのを見ながら朝食を食べたのを昨日の事のように覚えている。
その時彼はBGMでクラシックをかけていた。二十歳そこらの僕にはその光景と彼の音楽のチョイスが衝撃的だったが、彼はそのような事を普通にやる男だった。僕はそれからクラシックを聴くようになった。

これらの思い出はごく一部で、本当にいろんな事を2人で経験した。
何事にも物おじせず、好奇心の塊の彼と一緒に旅をしたおかげで、様々なシーンで普通の人達なら入り込むことがない、深くディープな世界を経験する事が出来た。
自分で言うのも何だが、それらの経験をきっかけに自分の能力が開花した。
自分に自信がつき、それからはあらゆる事を積極的に挑戦した。それで今がある。
僕は彼に影響された部分が多大にある。
そんな人生のピークの時間を共にした彼が死んだ。
当時の思い出を肌で体感し、ずっと一緒に共有していた唯一の友達が死んだ。

彼を煙たがる人達もたくさんいた。
でもそれは仕方ない。
彼は自分本位で行動し、人の事なんて二の次だったし、トラブルメーカーだった。
他人に迷惑はかけていなかったが、法に触れる事をして刑務所にも入っていた。
でもピュアなだけであって、本質は悪ではないのを僕は知っていた。
だから彼が刑務所に入り、皆が離れていっても僕はずっと友達でいた。
芯の部分は純粋で優しい男だと知っていたから。
その時にやり取りをしていた手紙を読み返していると、涙が溢れてくる。

15年前に僕が今の仕事を起業すると公言した時に、多くの人は冷ややかな反応だったが、彼は「絶対大丈夫。必ずうまくいく」と背中を押してくれた。
晩年は南の島でのんびり暮らそうと、40歳を過ぎてからもお互い言い合っていた。
頭にくる事も多々あったし、喧嘩もたくさんしたが、僕の得意な事、不得意な事、強いところ、弱いところ、全てを受け入れてくれ、自分の全てをさらけ出せる唯一の友人だった。

最後の会話で優しい言葉をかけてあげる事が出来なかったどころか、軽くあしらってしまった。
後悔しても、もう彼はいない。
親友がなんなのかは僕には分からない。
ただ、とても深い所で繋がっていた友人が死んだ。

彼がいなくなってから2ヶ月が経過しようとしている今でも、僕の心の中には靄がかかっており、あまり気力が湧いてこない。
いなくなった時の事なんて考えた事がなかったから、あまりの喪失感に自分でもびっくりしている。
時間が解決してくれるのだろうか。
もしそうだとしても、まだ少し時間はかかりそうだ。
普段はオカルト系は信じないが、最近は家で変な物音とかがしたりすると、あれ?とか思ってしまう。

LINEのやり取りを見返してみると、今年の1月の彼の誕生日に僕は「また一歩死に近づいたね」と、僕と彼が長年続けてきた、いつものブラックジョークのやり取りが残されていた。
今どういう状態でどこにいるのか分からないが、安らかに眠ってほしい。
そして、恥ずかしいから僕の事は見守らないでほしい。
楽しかったね。ありがとう。

masa


masa
PCサイトを表示
電話 0120-316-314(フリーダイヤル)
電話受付:年中無休 [ 10:00 - 19:00 ]
通信中です...しばらくお待ち下さい