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シェアブックス スタッフが送るたわいもない日記
【バッタを倒しにアフリカへ】 前野 ウルド 浩太郎(著)

普段読みたい本は、買取してきた本の中からやAmazonで探すが、久しぶりに本屋に行ったのでじっくり探す事にした。
2階建ての大きな書店だが、探し出してすぐに目に飛び込んできたのがこの本で、強烈なインパクトの表紙と題名に、他の本を探すことなく、その奇妙な表紙の本を手に取りものの数分で本屋を後にした。
本書はバッタ博士と言われ、バッタに食べられたいという子供の頃からの夢を叶える為に単身アフリカのモーリタニアに渡り、若き昆虫学者の奮闘を綴った渾身の一冊。

最初に言っておきたい。
この本が発行されたのは数年前だが、僕が今年読んだ本の中では一番面白かった。
虫が苦手な人は読まない方が賢明かもしれないが。。

子供の頃にファーブル昆虫記を読んで、偉大なるファーブルに憧れて昆虫の研究者になった著者。
冒頭ではポスドク(博士研究員)の身分で、昆虫学者になるべくアフリカへと旅立った
サバクトビバッタの研究をする為に向かったのは、西アフリカのモーリタニア。
サバクトビバッタはアフリカの半砂漠地帯に生息する害虫である。
バッタは漢字で「飛蝗」と書き、虫の皇帝と称される。
研究対象のサバクトビバッタはしばしば「神の罰」と称される大発生をおこし、農業に甚大な被害を与える。
ひとたび大発生すると数百億匹が群れを成して天地を覆いつくし、東京都程の広さの土地がすっぽりとバッタで覆いつくされる。
農作物のみならず、緑という緑を食い尽くし、成虫は風に乗ると1日100km以上移動するため、被害は一気に拡大する。
地球の陸地の20パーセントがこのバッタの被害に遭い、年間の総被害額は西アフリカだけでも400億円以上にも及ぶ。
バッタは特殊能力を持っており、環境次第で変身する能力を持っている。
まばらに生息している低密度下で発育した個体は「孤独相」と呼ばれ一般的な緑色をしたおとなしいバッタになる。
一方、高密度下で発育したものは、群れを成して活発に動き回り、黄色や黒の目立つバッタになる。
これらは「群生相」と呼ばれ、翅が長く飛翔に適した形態となり、黒い悪魔として恐れられている。
この現象をロシアの昆虫学者が発見し、「相変異」と名付けられた。
バッタ(Locust)とイナゴ(Grasshopper)は、この相変異を示すか示さないかで区別されており、相変異を示さないおとなしい日本のバッタは厳密に言うとイナゴの仲間らしい。

過去の歴史的なバッタの大発生は、決まって干ばつの後に大雨が降っている。
なぜ干ばつ後の大雨がバッタの大発生を引き起こすのかの著者の見解は以下の通りだ。
「干ばつによってバッタもろとも天敵も死滅し、砂漠は沈黙の大地と化す。生き残ったバッタはアフリカ全土に散らばり、わずかに緑が残っているエリアでほそぼそと生き延びる。
翌年、大雨が降ると緑が芽生えるが、そこにいち早く辿り着ける生物こそ、長距離移動できるサバクトビバッタだ。普段なら天敵に捕らえられ、数を減らすところ、天敵がいない『楽園』で育つため、多くの個体が生き延び、結果、短期間のうちに個体数が爆発的に増加していると考えられる」
なるほど。様々な条件が重なり、巨大な群れと成していくようだ。

ポスドク(博士研究員)は任期付きの身分の為、論文を発表して業績を上げなければ、研究者として就職する事が出来ない。
一介のポスドクが成果をあげないままアフリカで研究し続けることは難しく、あらゆる支援制度に頼らざるを得ない。
アフリカ現地での研究を続けたい一心で金策に走る中、京都大学の「白眉プロジェクト」を書いた章は秀逸だった。
京大総長の最終面接で、総長は「モーリタニアは何年目ですか?」という質問に著者は「3年目です」と答えた。
総長は「過酷な環境で生活し、研究するのは本当に困難な事。私は一人の人間としてあなたに感謝します」
この言葉で著者は泣きそうになったという。
まだ何も成果をあげていない一介のポスドクが単身アフリカで過酷な環境の中、つらい思いもしつつも奮闘している状況を全て見抜いての言葉だった。
京大の総長ともなると、やはり経験豊富で感性豊かで視野が広く、一言で人の心を掴む術を知っているなと感心させられた。
そして難関の白眉プロジェクトに見事合格し、収入面を気にする事なく研究できるようになった。

と、ざっと本の内容を書いたが、このような世界的に深刻なテーマがとてもポップに書かれてある。
センス抜群のユーモア溢れる文章と著者の狂気が見事にマッチされ、最初の数ページで見事に読み手の心を掴んでくる。久しぶりに冒頭から引き込まれた本だった。
研究対象のサバクトビバッタはその名の通り砂漠に生息しており、じっくり観察するにはサハラ砂漠で野宿をしなければならない。
砂漠を連想する一つにオアシスがあると思うが、オアシスといえば我々日本人のイメージでは、ヤシの木に囲まれた清涼感溢れる綺麗な水場で、とても快適な空間を想像してしまうが、実際のオアシスはドス黒く濁った水を茶色の泥が囲み、そのほとりには、水を飲みに来た動物たちの糞だらけで悪臭が漂っているらしい。イメージはただのイメージに過ぎない。
猛毒を持ったサソリに刺されたり、無収入の中バッタ研究がうまく進まなかったり、自身に降りかかる多少の不幸も全てコミカルに書いてあるが、その奥底にある凄まじい信念と探求心もしっかりと伝わってくる。
現地の研究所の職員との人間関係や自然に対する姿勢は尊敬に値するものであり、一つ一つの言動・行動・心理が本当に深くて感心させられる。
バッタ研究という、自身の心をこんなにも熱く燃やせるものに出会えている著者を羨ましく思う。
僕は文章で笑わせるというのは相当難しいと思っているが、この著者はいとも簡単に読み手を笑わせてくる。
こんな世界的に深刻なテーマだが、小難しい話は一切なく、コミカルに描写してくれている著者に聡明さを感じすにはいられない。

無収入に陥り、不遇の状況になりながらも自力で何とか対策を考え、全てはサバクトビバッタの為に行動に移していく。
当然だが、ほとんどの日本人はバッタ研究の重要性を認識していない。
そこで著者はまずバッタ研究の重要性を認知してもらう為に自らが有名になる事を考え、戦略的にあらゆるシーンで斬新な工夫くわえながら積極的に露出していっている。
僕がこの本をジャケ買いしたように、題名と表紙につられてこの本を購入した人は、まんまと著者の術中にはまったことになる。

連日、バッタを追跡する事で、無秩序に動いているように見えていた群れの活動にうっすらと法則性が見えてきて、バッタの次の行動が分かるようになってきたという。
現時点ではサバクトビバッタは殺虫剤での対策しかないらしいが、著者はそれ以外の方法での被害を食い止め方を見つけ出そうとしている。この本を読むと、この人なら出来るんじゃないかと思ってしまう。
個人的にはめちゃくちゃ面白かったので、今後も動向を追いかけようと思う。

2022年も有難うございました!
2023年もシェアブックスを宜しくお願い致します。

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よくBSNHKの自然をテーマとした番組とかを見ていると、植物が成長していく過程が映し出される。
例えば、蕾から満開の花が開くまで、数秒間の映像に編集されているものを誰もが一度はテレビ等で見た事があると思う。
最初は動画を撮って早送りしているのかなと思っていたが、調べてみると、定点カメラを設置し、ある一定の間隔で静止画を撮影して、それを編集して出来上がる「タイムラプス」撮影をしている事が分かった。
半年ほど前に僕はどうしてもそれを自分で撮影したいと思うようになり、カメラマンの友人に教えてもらって必要な機材を買い揃えた。
成功や失敗を繰り返しながら何度も撮影を行い、素材となる花や植物を求め、近所の花屋さんや園芸所を周る日々が現在も続いている。
撮影をしていると、花や植物の不思議を目の当たりにし、今まで考えた事もなかったいろんな気付きがあり、何故そうなるんだろう?という疑問も湧き上がってきた。
謎に満ちている植物の世界を僕はほとんど理解していない。
そこで、何かしらの植物の本を読んでみようと思い、今回手に取った本が題名の本。
計算式とかが出てくる難しい本を読んだりすると途中で断念すると思い、気軽に読めそうな入門書のような本を選んだ。

読んでみて印象に残った個所をいくつか紹介する。

自然界にはある規則性に基づいた数列が存在していて、その数列はフィボナッチ数列と呼ばれている。
人間が最も美しいと感じる比率を黄金比といい、その黄金比と密接に関係しているフィボナッチ数列。
不思議な事に植物はフィボナッチ数列に従って生存している。
植物の茎につく葉の位置はでたらめについているわけではなく、光が満遍なく当たるように、少しずつ葉の位置をずらしながらついていて、「葉序」と呼ばれている。
例えば360度の3分の1の120度ずつずれるものは、葉っぱを下から3枚数えると一周回って元の位置に戻ってくることになる。
180度や144度でずれるものもあるが、同じように下の葉っぱから数え、何枚で何周回って元の位置に戻ってくるかを計算すると葉っぱの角度が分かるようになる。
この分数の分母と分子はフィボナッチ数列で並んでいる。
僕は相場をやるので、テクニカル指標であるフィボナッチという言葉自体は知っていたが、植物の数列に関係しているとは知らなかった。
この数列はもはや芸術の域にあると感じた。

雑草は踏まれても何度でも立ち上がるというのは、人間が勝手に雑草を美化した解釈で、本当はそうではないらしい。
1度や2度は立ち上がるが、植物の目的は種子を残す事なので、踏まれて立ち上がる事にエネルギーを使うよりも、踏まれたままの寝た状態でも種子を残す事の方が大切。
踏まれても立ち上がらなければいけないという、いわゆる雑草魂は人間の幻想で、植物の生き方はそんな人間の情緒的な根性論よりもずっと合理的だと思った。

人類は草原で進化したと言われているが、固くて栄養価の少ないイネ科の植物の葉は、煮ても焼いても食べる事が出来ず食糧にはならなかったが、人類は葉ではない部分を食べだした。
イネ・小麦・トウモロコシ等、現在、人間が重要な食料としている穀物は全てイネ科の植物の「種子」だ。
栽培されているムギ類と野生のムギの違いは種子を落とすか落とさないかで、野生のムギは子孫を残すために種子をばらまくが、栽培されているムギは種子が落ちると収穫する事が出来ない。
野生の植物は全て種子が離れ落ちる「脱粒性」があるが、少ない確率で種子が落ちずに突然変異をする事がある。
人類はその突然変異をした株を見出す事に成功した。
自然界では種子が落ちない性質は子孫を残せない為、致命的な欠落だが、人類にとっては種子がそのまま残っていれば収穫して食料にも出来るし、その種子をまいて育てれば種子の落ちない性質のムギを増やすことが出来る。
種子の落ちない「非脱粒性」の突然変異の発見こそが、人類の農業の始まりで、革命的な出来事だったという事実はとても興味深く、毎日何かしらのイネ科の食糧を口にしている僕は、自然とは何かを深く再考させられた。

読みやすくて「なるほど~」と思う事や考えさせられるところも結構あり、植物が戦略的に生きていることを分かりやすく説明しているので読んで良かったと思ったが、いまいちユーモアに欠けるというか教科書を読んでいるようだったので、もう少し面白さが欲しかったというのが正直な感想。

本の冒頭にはゲーテの言葉が記されていた。
【天には星がなければならない。大地には花がなければならない。そして、人間には愛がなければならない。】

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【ノモレ】国分 拓(著)を読んだ。

「これは神話ではない。伝説でもない。森のずっと奥。一つの集落が語り継いできた、別れの記憶だ。」
という冒頭の書き出しから始まるこの本は、アマゾン奥地で未だ文明と接触していない少数民族「イゾラド」について描くノンフィクション作品。
イゾラドとは文明社会と未接触の先住民を言い表す総称であり、アマゾンの密林に住む未文明の隔絶された人々のことを指す。
アマゾン源流域にいるイゾラドは部族名や言語はもちろんで、現在何人いるかも把握出来ていない。

100年以上前、南米アマゾンの奥深い森に、黒い黄金と呼ばれていた「ゴム」を求めて、ヨーロッパ等から貴族やならず者達が入り乱れて殺到したという。
採れば採るほど莫大な利益になるゴムの木がある一帯に、白人達は勝手に建物を建て、自分達の「農園」だと主張した。
現地の森と川に生きる「イネ族」という先住民達を銃で脅し、耐え難い重労働を課し、奴隷として扱った。
1902年のことだ。そんな悲惨な日常に嫌気がさしたイネ族の男5人が、主である白人を殺害し、奴隷小屋から仲間を救い出して森へと逃げた。
すぐに用心棒達が後を追ってきたが、深い森を昼夜問わず何日も歩き続け、農園を脱走してから半年後にようやく故郷に戻る事が出来た。
だが、森を逃げきる事が出来たのは全員ではなかった。
追手が近くまで迫ってきているのが分かり、全滅を避けるために二手に分かれて逃げたが、その森で別れた者達は二度と会う事はなかった。
年月が経ち、故郷に逃げ戻ってくる事が出来た者達に、この世を去る日が近づいてきた。
去りゆく者は子孫を集めて、こう言った。
『森で別れたノモレ(仲間)に会いたい。息子達よノモレ(友)を探してくれ。』
人知れぬ密林の中で、別れの記憶と再会の願いが静かに語り継がれていった。
そして、100年の時が過ぎた。

イネ族の若きリーダーである「ロメウ」は農園から逃げ延びた末裔にあたる。
父の代までイゾラドであったが、ロメウ自身は学位を持ち、スペイン語も話し、現在のイネ族は文明化された一族である。
そんなロメウの集落は秘境と呼ばれるアマゾンにあって最も奥地にある集落だが、ある日を境に森林伐採等で奥深く追いやられた部族名も言語も分からないイゾラド達の目撃情報がロメウの周りに相次ぎ報告された。
その謎の部族イゾラドが、村の人々を襲う事例が頻発し、ペルー政府からイゾラドと移住地が近いイネ族のロメウの元に応援要請が届いた。

ロメウはイゾラドの出現情報のある上流の地へと足を運んだ。
未開拓のその地に政府が監視のために建てた質素な小屋を前線基地とし、そこから毎日双眼鏡を使って対岸の監視と、ボートを使ってのパトロールを行うこととなった。
イネ族の常駐員が2名おり、ロメウは白人の人類学者と交代で責任者を務めながら監視していく。
そんなある日、突然彼らが対岸に現れた。
ロメウは古いイネ族の言語で「ノモレ!(仲間)ノモレ!(友)」と叫びながら接触を試みる。
現れたイゾラドの一人の女がジャガーに噛まれて怪我をしており、その治療をしたのがきっかけで、文明社会を知らない彼らとの交流が始まった。
バナナを渡すことによって敵でないことを伝え、本格的な接触が始まり、毎日彼らとコミュニケーションを取っていくにつれ、100年前に森で生き別れ、脈々と語り継がれ伝承されてきたノモレだという思いを強めていく。
その様に考えるようになったのは、彼らの話す言葉が昔のイネ族の言葉に似ている事と、その辺りの植生作物ではないバナナを知っている事。
その昔白人達は農園でバナナの栽培を行っていたと言われ、先祖達が逃げ出す時にそのバナナの種をポケットに入れて逃げ出したと言われている。
もう一つは、文明社会と接触がない彼らは、我々が持つ感染症や病原菌への免疫を持っておらず、普通なら文明人と接触すると一瞬にして病気になるはずだが、ロメウと接触してもその兆候が見受けられない。
これはお互いの先祖達が既に接触していた事を意味するのではないかと推測される。

現れたイゾラドとロメオは会う度に徐々に距離を近づけ、家族の話をし、ニックネームで呼び合うまでの信頼関係で結ばれていった。
だがある日、ロメオとイゾラド達がいつものように川辺で触れ合っている所に、突然けたたましいエンジン音の船が現れ、サングラスをかけた欧米の観光客がイゾラドの家族に向かい、スマートフォンで撮影を始めた。
イゾラド達は鬼の形相となり、船に対して石を投げて威嚇しようとするがロメオが諫め、観光船が去るのを待った。
何とも言えない空虚な時間が流れ、結局その出来事をきっかけに二度と彼らが現れる事はなかった。。

と、ざっとストーリーを書いたが、この本は衝撃的だった。
このデジタル化された現代にまだこんな未開の人達がいたのかと。
初めて接触した時にロメオ達が持っていた人工的なガラスの小瓶を見て、その初めて見る物質を不思議そうにずっと見つめていたという。
言葉が通じず、法律も関係なく、文明側との共通認識を持ち合わせていない彼らは、時に凶暴で、とても用心深い。
時に文明化された村を襲って食料を奪い、はっきりとした理由もなく人を殺す。
また、時に文明社会から持ち込まれた病原菌で一族は全滅し、銃を持った不法な侵略者に住んでいた場所を奪われ、殺される。
文明人にとっては軽い風邪やインフルエンザであっても彼らにとっては致死的なものになりうる。
彼らの命の軽さに胸が締め付けられ、とても切ない話しだった。
観光を外貨収入の柱としているペルー政府は、森林伐採・道路建設・動植物の採取も行う為、どうしてもイゾラド達を文明化させたいのだろう。
幸せの軸をどこに置くかで、いろんな見方が出来る内容の本だなと思った。
興味がある方は是非一読を。

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